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二本木駅【えちごトキめき鉄道】

スイッチバックの二本木駅

二本木駅は新潟県内の鉄道駅として唯一、スイッチバック式のホームが残る駅です。全国的にみてもスイッチバック方式を採用する駅は、10箇所しかありません。初めてのお客さんの中には、「おっ、戻った!?」と驚かれる方もいらっしゃいます^^

東日本旅客鉄道(JR東日本)信越本線の駅でしたが、2015年(平成27年)3月14日の北陸新幹線・長野駅 – 金沢駅間延伸開業に際し、並行在来線として経営分離され、えちごトキめき鉄道へ移管されました。

スイッチバックとは

スイッチバックは、険しい斜面を登坂・降坂するため、ある方向から概ね反対方向へと鋭角的に進行方向を転換するジグザグに敷かれた道路又は鉄道線路です。二本木駅では画像のような構造になっています。

付近に急勾配が存在することから1911年(明治44年)の開業時にスイッチバックが採用されました。昭和1960年代に入り蒸気機関車から電車化が進むと、馬力が向上しスイッチバック方式である必要性はなくなりましたが、日本曹達株式会社構内への専用線が設けられていた関係から残され、現在に至るまでその構造が維持されています。

二本木駅の開業

【二本木駅開業の請願】

直江津〜関山間の鉄道が明治19年に開業した当時、二本木駅は存在していませんでした。
その後、この地域でも駅の設置を求める声が高まり、明治31年になって駅設置が請願されました。
しかし、明治37年に勃発した日露戦争の影響かなかなか許可が下りず、二本木駅が開業したのは申請から13年も経った明治44年のことでした。

【駅名の由来】

駅の周辺が藤沢と呼ばれていたことから、駅名も藤沢となる可能性がありました。
しかし藤沢駅はすでに東海道線に存在していました。そのため、近隣の北国街道の宿場町・二本木宿の名前を取り、二本木駅となりました。

二本木駅の開業を伝える地元新聞(高田新聞 明治44年3月25日・上越市蔵)

二本木駅(明治44年 上越市中郷区蔵)

明治44年5月1日の開業記念式典で撮影されたと思われる写真です。駅舎は長方形で、現在と形状が異なっていますが、寄棟屋根と駅舎を取り巻く庇(ひさし)、漆喰壁と腰板は現在でもその面影が残っています。中心で腰に左手を当てている人物が初代駅長の佐藤昌三氏と思われます。彼の前任地は御代田駅(長野県御代田町)で、後に梶屋敷駅の初代駅長にもなりました。

二本木駅と日本曹達 ㈱

<日本曹達の誕生>

二本木駅が所在する中郷村(現・上越市中郷区)は、純農山村地域で、駅開業後しばらくは利用客、貨物量ともに僅かな小駅でした。
しかしこの地域では早い時期から近隣を流れる関川を活用した水力発電がさかんで、明治末年頃から大規模な工場が相次いで立地しました。
日本曹達(以下、日曹)二本木工場もそんな工場の一つで、大正9年に駅の隣(現在位置と同じ)で操業を開始しました。
この地で誕生した日曹は現在、東京の大手町に本社を持ち、世界中に現地法人を持つ大企業に成長しています。

<日曹と二本木駅のかかわり>

日曹の誕生は二本木駅にも大きな変化をもたらしました。大正10年の時点では1日の利用客が100人に満たなかったにもかかわらず、その20年後の昭和16年には利用客が2,513人、年間貨物量は267,985トンに達しました。
その後、日曹が順調に成長すると共に二本木駅も発展し、昭和30年代にはついに年間貨物量が30万トンを突破しました。
貨物の99%は日曹の原料・製品であったにもかかわらず、当時の二本木駅は県内で十指に入る貨物量を誇っていました。

日曹二本木工場と二本木駅

操業開始直後の日曹二本木工場を写したものです。遠くに見えるモダンな二階建てが事務所で、左の建物が守衛所や工場と言われています。右には当時の二本木駅が写っていますが、現在よりも経路は急カーブしていて、ホーム上には建物がほとんど見当たりません。この当時、二本木駅の利用客は1日あたり100名にも満たないほどでした。

現在の中郷中学校付近から撮影された写真と思われます。雄大な山並みを背景に眼下には大正9年の創業から順調に発展した日曹二本木工場が広がっています。
中央左側には大正11年に完成した二本木駅の雪囲い(スノージェット)がその細長い姿を見せています。この時期、まさに二本木駅は急拡大の時期を迎えていました。

二本木駅の昭和

<駅設備の拡充>

日曹の誕生により劇的に発展した二本木駅は、もはや開業当時の設備では手狭になっていました。
そのため、昭和初期に駅設備が次々に拡充されました。駅舎は妙高高原方面に増築され、またホーム待合室やホーム上屋など、多くの建物がつくられました。これらの多くは今でもその姿を残しています。

<利用客の減少と貨物輸送の終焉>

二本木駅の利用客は昭和40年頃から減少し始めました。
貨物量はその後も順調に増加し、昭和40年代の終わり頃に40万トンを超えましたが、その後はトラック輸送への転換などで減少を続けました。
昭和が終わってからもしばらくは貨物列車による日曹の原料・製品輸送が続けられましたが、平成19年(2007年)には鉄道による輸送がついに終了しました。
二本木駅の駅前にはこの歴史の象徴として、当時使用されていたタンク車の車輪が展示されています。

昭和30年5月2日、「第6回運転無事故表彰記念」に撮影された写真です。昭和初期の度重なる増改築を経て、駅舎は姿を大きく変えています。
左隅には下屋らしきものが確認され、また高窓も横に広がっていますが、出入口上部に設けられた庇の入母屋屋根のような装飾や、漆喰壁と腰板は明治期の姿をほぼ保っています。

昭和46年5月1日、開業60周年記念式典の際に撮影された写真です。昭和30年の写真と比較すると、出入口上部に設けられた庇の入母屋屋根のような装飾が撤去され、その部分のみ色が変わっているのが分かります。また出入口左側は、漆喰壁と腰板の外壁が下見板に変更されています。平成30年に実施された復元リニューアル工事は、この写真を参考に行われました。

上の写真から2年後、昭和48年の写真です。駅舎の右側、こちらに妻面を見せている下見板の建物は公衆トイレで、現在は存在していません。
また二本木駅の名物といえる駅前の2本の桜はまだ若木で、現在のように立派ではありません。坂道の左側の建物は当時は蕎麦屋で、右側には文房具屋がありました。

【二本木駅構内】昭和後期 個人 蔵

かつて妙高高原に向かう引込線の分岐点付近には、2階建ての信号扱所がありました。この写真は、その信号扱所から撮影された写真です。
駅構内の左側には日曹二本木工場の荷物置場と日曹のスイッチャーが見え、その隣には昔懐かしいボンネット型の列車が停車しています。ホームは現在より少し長く、待合所の前方にも上屋が伸びているのが分かります。

地域の拠点として

<平成の二本木駅>

貨物列車の発着がなくなった後、二本木駅の利用客は1日150人程度となり、開業時のような静かな駅に戻りました。しかし、珍しいスイッチバック式の駅として鉄道ファンに根強い人気を誇り、北陸新幹線開業直前には多くのファンが訪れました。

<地域づくりの拠点として>

そんな中、平成26年頃から地域住民の皆様が珍しいスイッチバック式の駅に着目し、駅を地域づくりの拠点として活用し始めました。平成28年にはコミュニティースペース「さとまるーむ」がオープンし、交流の場となっています。

<更なる魅力向上にむけて>

二本木駅の駅舎は明治43年築で、この付近では唯一の明治期の木造駅舎でした。貴重な建物ですが、度重なる改修で当初の面影は全く失われていました。
平成30年、行政の支援を受けてリニューアル工事が実施されました。「明治の木造駅舎が残るスイッチバックの駅」として、更なる拠点性の向上が期待されています。